かずのひとりごと

日本について、世の中について、私の生き方について、考えたことを書きます。

待機児童問題。そもそも保育園、共働きありきの議論に疑問。

▼待機児童問題で、お母様方が悲鳴をあげている様子が連日報道されています。私がこのニュースを見ていつも思うのは、「じゃあ保育園を充実させましょう」という単純な議論だけでいいのかということです。

▼女性の社会進出と言われますが、それは望んでのことなのでしょうか、それとも止むを得ずなのでしょうか。正確なところはわかりませんが、経済的理由から後者である女性も少なくないのではないでしょうか。であるならば、子育てに専念したい女性はそうできるように「日本の経済を良くするにはどうすればよいのか」という根本的な議論が必要です。

 ところが日頃ニュースを見ていて、その当たり前の議論が全然なされていない。というか、されていても、コメンテーターの話はいつもわかりにくい専門用語ばかりで曖昧なまま。なぜ日本の景気が良くならないのか、肝心要のことが見えない。

▼例えば平成26年の消費増税を境に、日本のGDPは一気に急落。揃って増税論を唱えていたテレビ・新聞・評論家は忘れたかのように知らん顔です。

 もうずっと前から「デフレだ」「不景気だ」とか言われながら、メディアはその理由を、解決法を国民に知らせません。なぜならメディアは、国の経済よりも、己の経済の方が大事な権力者に支配されているから。経済を知らない国民を操る格好の道具になってしまっています。

▼私は、働きたい女性は働けるようにすると同時に、子育てに専念したい女性は子育てに専念できるようにするべきと考えます。特に乳幼児にとっては、保育士よりも母親とのスキンシップが何よりも大切ではないでしょうか。

 乳幼児たちはきっと、何もわかっていないようでいて、実は恐ろしいほどに、周囲からの刺激に敏感になっている。他の誰でもないお母さんの温もりこそが一番必要だと思うのです。

「自然分娩の方が愛着」発言の教諭が謝罪したことの是非

▼ここまで大事になることなのか?というのが私の率直な感想です。あまり度が過ぎると学校の先生が萎縮してしまい、教科書に書いてあること以外は発言できなくなるのではないでしょうか?

▼確かに私もこの発言について根拠に乏しいとは思います。帝王切開を否定するかのように受け取られる発言でもあると思います。しかし、あくまで授業の一コマでこの先生なりの「説」が示されただけであって、日常的に押し付けているわけではないでしょう。

 先生の言うことを生徒が全て鵜呑みにしてしまう状況だとしたら、それこそが深刻な問題です。生徒一人一人が、いろんな情報を得た上で自分の頭で考えることこそが大切ではないでしょうか。幼稚園ならいざ知らず、小学5年生なのですから。

▼親は「先生はそういう考えだが、私はこういう考えだ」と子供に教えればそれでいいのではないですか。何よりメディアが、大々的にyahooトップにまで取り上げ、先生の一つの「説」を封殺することこそ問題だと思います。

▼もっと他に、それこそ日常的に、偏った考えを生徒に植え付けている先生がたくさんいるではないですか。そちらの方こそ問題視するべきです。

「日常のテレビ」の恐怖

▼私は自宅にテレビを置いていないのだが、職場で一人夜勤の合間、ふとリモコンを手に取りぼんやりと眺める。もはやネットで必要な情報はほとんど得られるのだが、テレビに流れる「時代の空気」も感じ取っておかなければならないと思うからだ。

▼ある日の深夜、「日常的な」番組の光景が、私の目にはことごとく異様に、不気味に映った。チャンネルを回せど回せど、何気ない日常の裏に潜む邪悪な闇が見えて、恐怖を覚えた。

 何を気の触れたようなことを、と思われるだろう。だがこの恐怖は今に始まったことではない。ずっと前からあったのだが、最近はその恐怖がみるみるうちに拡大し、日常のテレビに侵食しているのを感じる。

▼平和である。見た目では。

 でもこの「平和」が近いうちに、本当に近いうちにあっという間に崩れ去る危機が迫っている。

 人類の歴史を振り返って、この先この「平和」がずっと続く保障がどこにあるだろうか。

▼テレビが日常の人たちから見れば、私のような人は異常であろう。懸命に説明しても複雑な顔をされてしまうだろうから、多くを語れないでいる。

 人の思考と行動は、他人から言われてもなかなか変わらない。一人一人が「自分自身で」変わる必要を感じて初めて変わる。

▼私はテレビの恐怖にどう立ち向かうか。

 テレビ局や、テレビが日常の人に訴えることも必要だろう。

 だがその前に、まずは私が「自分自身で」思考し、行動できるようにならなければならない。

除夜の鐘がうるさい? 昨今巷で多発する騒音問題について。

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▼今年も気づけば残すところあとわずか。年末の夜というのは、しんと静まるような寒さの中にどこか神聖で厳粛な空気が漂い、神妙な気持ちになるものです。

 日本人の精神は、四季を通して研ぎ澄まされ、情緒豊かに育まれてきました。あぁ、日本に生まれてよかった…。

▼そんな感傷に浸る私に、見事な顔面パンチをくらわしたニュースがこれですよ…。

news.careerconnection.jp

 世知辛い世の中になったものだと、なんとも残念な、いたたまれない気持ちになります。というか、何かがおかしい。絶対に間違ってると思う。私はこのニュースには、一見何気ないようでいて大きな危機が潜んでいるような気がするのです。

▼まず第一に危惧するのは、今の日本で「公の精神」が失われてきているのではないかということ。最近、保育園の「子供の声がうるさい」という苦情も増えているとのことですが、いかがなものか。私の自宅の近くにも病院と消防署があり、夜間にもしょっちゅう救急車や消防車のサイレンが鳴り響きます。しかし病院も消防署も社会になくてはならないものなので、公を思い、個人としての主張をそっと胸の奥に閉じ込め、受容しなければなりません。

 突然、近隣に保育園が新設されるという方々にとっては大変に深刻な問題でしょう。近年、待機児童が急増している影響もあると思います。しかし、話し合いが重ねられ、防音壁などの対策が提案されてもなかなか合意に至らず、各地で建設中止・延期が相次いでいるというニュースを聞くと、日本社会で「個の精神」が肥大しつつあるのではないかと憂慮せずにいられません。

▼「除夜の鐘は必要なのか」という疑問の声も上がってくるかと思います。そこで私が第二に懸念するのが、日本において「信仰の精神」が疎かになりつつあるのではないかということ。除夜の鐘というのは、人に百八つある煩悩を祓うために百八回、撞かれるそうです。このように、寺院で執り行われる儀式というのは、神への祈りです。それにとどまらず、日本で古来から脈々と受け継がれてきている数々の伝統行事の儀式の根底には、神への祈りが込められています。

 私は、人智を超えた絶対的な存在を思い、畏敬の念を抱く感情は、人間にとってなくてはならないものだと思うのです。こんな小難しい理屈を語らなくても、子どもの頃からそれが当たり前で、自然であることがとても大切だと思うのです。

▼当事者でない人間には何とでも言える、と言われてしまえばそれまでですが。私自身も、公を思い、祈ることを大切にできる人間を目指していきたいものです。

日露首脳会談でプーチン大統領が遅刻。日本が完全になめられている件について。

▼先日の岸田外務大臣との会談に引き続いて、またも繰り返された遅刻。互いの主張が強くぶつかり合う交渉とはいえ、率直に不快感を覚えた方が多かったのではないでしょうか。

 日本の国民性は特に、こういった話し合い以前の、人としての基本的なルール・道徳に反する行為は恥ずべきことであると戒めます。この行いはプーチン大統領にとって大きなマイナスだったのではないでしょうか。普段はのんびりと構えている国民の中でも、こんな国には北方領土を明け渡してはならないと、不信感・警戒感を抱いた人が増えたのではないかと思います。

▼そんな中にあって私が強い疑問を感じたのが、言わずと知れた朝日売国新聞の以下の記事。

 遅刻は過去にも例があったというのですが、だから何だというのでしょう。日本は完全になめられている、その惨めな現状にこそ目を向けるべきではないでしょうか。

 先ほどたまたまNHKニュース7でも目にしたのですが、山口県で出迎えに来ていた方が「遅刻は過去にもあったようだから構わない」などと話していました。この方は、約束の相手に3時間遅刻されても、常習なら構わないのでしょうか。

▼軍事力の行使という後ろ盾がない中で足元を見られてしまう、これが日本の外交の厳しい現実です。敗戦後70年を過ぎてもまだ「武力をもたない、争わない平和」という幻想を憲法に掲げている日本。どんな国とも堂々と、対等に渡り合える国を目指したいものです。