かずのひとりごと

日本について、世の中について、私の生き方について、考えたことを書きます。

人前でうまく話せない時の解決法

▼「人前でうまく話せるようになりたい」とは、物心ついたころには誰しもが一度は抱く願望ではないだろうか。

 ところが私は、ほんの2年くらい前まで無頓着で、その必要性をはっきり自覚することがなかった。どうせ自分はあまり共感を得られないだろうし、うまく話すことで自分の実力以上の評価を受けたくないと考えていたのだ。周囲から口下手で遠慮がちな人間と見られていた方が、話す労力が少なくて済む。それに、装うことは相手に対して失礼にもなるし、結果的にはお互いのためにもならないと思ってきた。できるだけありのままの自分で人と関わることを心がけてきた。それでそれなりにいろんな人たちと良好な関係を築けていたと思っている。

▼ところが大人になるにつれ、それではどうしても支障を来してくる場面というのが増えてきた。そんな中でも、周囲の空気に抗うかのように、なるべく自分の信条を貫こうと粘ってきた。そして、30過ぎの年齢にまでなって、やはりこのままではいけないと自覚するに至ったのである。相手にしっかり向き合わないこともまた、失礼である。

▼そして、うまく話そうとした途端に、情けないことに会話がとてもぎこちなくなったのである。表情が強張ったり、緊張して赤面したり、目線を合わせているのが辛く感じたり。さらには、話している最中に自分の顔が汚れていないか不安になったり、眼鏡のレンズに付いたゴミが気になったり、頭が痒い気がしたり、全然関係のない雑念まで入り込むようになった。これまで一度も経験したことのない症状だった。まだまだ軽度とはいえ、自分は大丈夫と他人事のように思っていた対人恐怖症になってしまうなんて。

▼自分の場合は、特に具体的な対策は講じなかった。ただ、できる限り目の前の人ときちんと向き合おうと心がけ続けてきただけで、少しずつではあるがかなり改善した。失敗の回数を重ねるほど、そして大失敗をするほど、吹っ切れることができた。その積み重ねだと思う。

▼受け身ではなく、与えられる人間になりたい。ありのままの自分として、もっと人に話せるようになりたい。

考える前に行動するということ

▼「考える前に行動する」、一見、好ましくないことのようにも思える。しかし人間、最終的にこの境地に達することが幸せにつながるような気がしている。

▼人は大人になるにつれ、考えて行動するようになる。失敗を避けるようになる。インターネットが発達し、あらゆる情報が簡単に手に入るようになった現代はなおさら、事前にあれこれ勉強するようになっているだろう。しかし、得てしてそれが裏目に出ることがある。

▼考えなしで行動するのは単なる無謀である。ただ、あれこれ考え過ぎずにまずは現場に出て、敢えて失敗覚悟でぶつかってみることも時には大切だと思う。たくさん失敗をしながら行動を修正していくという方法だ。結果的にはこちらの方が得るものが大きいことも多々あると思う。

 最終的な到達点として、ありとあらゆる場面で「無心」で迷いなく行動できるようになることが幸せにつながるのだと思う。例えるならば、獲物にまっしぐらに向かう動物のように。ある目標を達成したいという純粋な心の声に従って体が動くこと。あるいは、この思いを伝えたいという純粋な心の声に従って言葉が出ること。その境地を目指したい。

▼という訳で、このブログもできる限り「無心」で言葉を書き綴っていきたいと考えている。

本当はブログなんて書きたくない?(笑)

▼突拍子もないタイトルにしてしまったが、今の私の率直な考えである。

 その心は、ブログよりももっと優れた情報伝達手段があるから。

 パソコンの画面上の文字を通してではなく、生身の人間同士が目と目を合わせて言葉を交わす以上のコミュニケーションはない。そのコミュニケーションが充実していてブログを書く暇がないというのが、私の理想像なのだ。

▼もちろん、ブログでしか実現できないこともある。一瞬にして全世界に向けて情報を公開できるのはブログならでは。また、文章でなければうまく伝えられない情報があることも確かだ。ただ、あくまで「生(ナマ)のコミュニケーション」が第一にあって、その補完としてブログを活用できるようになりたい。

▼しかし、その実現はまだまだ当分、先になりそうだ。あいにく残念なことに、今、私の周囲に「本当の話し相手」と思える人がほとんどいないのだ。まずは、ブログでひとりごとを書くことから始めてみよう。そこからきっと何かが変わってくるような気がするのだ。

ひさしぶりに「馬鹿笑い」をしてみたい

▼最近、馬鹿笑いをしていないなあ。

 どうにも気分が晴れない時は、とにかく無理矢理にでも笑顔を作って、大きな笑い声をあげれば、結構前向きになれる気がする。

▼私は家にテレビを置いていない。インターネットで事足りるからだ。テレビをつけていれば、自然と笑い声につられて気持ちが上向くだろうか。ただ、どうも最近のテレビは「作り笑い」が多い気がするのだ。バラエティ番組では文字通り、編集で笑い声が加えられたりしている。

 M-1グランプリなんかを見ていると、どうも最近の笑いはどこか「知的でクール」なのだ。すごく完成度が高くて、計算されていて、洗練された高度なテクニックが駆使されているのを感じる。自分にとってはそれが、ちょっとシラけてしまうんだなあ。

youtubeで昔のお笑いを見てみると、高度経済成長の当時の熱気と相まって、強烈で荒削りな笑いのエネルギーがほとばしっている。聞き手が追いつくのがやっとなくらいのスピードであったり、今では放送コードで封じられてしまうであろう刺激的なフレーズであったり、現代では白い目で見られるようなくだらなさであったり…。小細工なしのわかりやすさが愉快、愉快。

▼今、ぱっと思い浮かぶのが「ダウンタウンのごっつええ感じ」のコント、キャシィ塚本だ。常識的な感覚で見れば誰もが眉をひそめるような、奇声とともに繰り出される破天荒な暴挙のオンパレードである。笑えないはずなのに、笑ってはいけないはずなのに、なぜか笑える。もちろん、この不健全極まりない笑いを諸手を挙げて賞賛する訳ではない。

 ただ、人間、時にはこういう笑いに救われることが確かにあると思うのだ。

▼最近の自分は、どうもシケたツラになってしまっている。もっとあけすけに、豪快に笑ってみたいものだ。

学校の授業の大半が退屈だった理由

▼自分の人生を振り返り、何に一番時間を費やしてきたかを考えるに、「学校で授業を受けた時間」が思い浮かぶ

 人生の3分の1は睡眠時間であると言われるが、学生時代においては、布団から出ている時間の3分の1は授業を受けていたと言えるのではないか。

 であるはずなのに、私の場合、授業で学んだ実感というのが高校から明らかに薄れ始め、大学に関してはほとんどないのである。テスト前の、テスト対策勉強にひたすら集中していた。同じ感覚を持つ人は決して少なくないのではないか。

 考えられる理由は多々挙げられるのだが、一番の理由は「受け身一辺倒であるから」だと思う。受け身は楽だ。しかしその弊害として、主体性が失われてしまう。

 中学校までは、生きていく上で最低限必要な勉強であるとの認識があったから、自ら学ぼうという意欲があった。しかし高校に上がってから、どう考えても役に立つとは思えない専門的な内容になり、苦痛でしかなくなってしまったのだ。

 大学に上がり、自分が希望した学部の授業になれば変わるかと期待していたが、残念ながらほとんど退屈だった。授業の内容が、実際に現場でどう役立つかのイメージが湧かなかったのだ。今になって、こういう現場だと知っていたならもう少し勉強に身が入っただろうなと思うことがある。

▼私が言う「受け身」というのは、形式の問題よりも姿勢の問題である。いくら参加型の授業でも、学生が必要性に疑問を感じながらやらされている状況では苦痛でしかない。

 目的を明確にするということ。それも、できる限り強い意志と情熱を注げるようにすることが大切だ。