私がスマホを使わない理由。インターネットが人間にもたらす光と影について考える。
▼多くの人がスマートフォンを使う第一の理由としては、やはりいつでもどこでもインターネットにアクセスできるということだろう。その利便性の高さは言うまでもない。ただ私の場合は外出が少ないこともあり、発生する料金に見合うだけの必要性を感じるまでには至っていない。
▼今や本当に多くの人たちが、時間さえあれば下を向いて、意のままに操作する光景を目にする。四六時中自由に情報収集できて結構なことだと思うのだが、あまりにも皆が没頭している姿にどこか異様さ、危うさを感じるのは私だけだろうか。
▼私は、自宅でネットをしている時間が人より結構長い方だと思う。それもあってか、外にいる時はむしろネットから離れたいと思う。そして周囲に五感を働かせていたい。日々あまりにも膨大な情報に接していると満腹感を覚えて、十分に咀嚼・消化しきれないと感じるのだ。一歩立ち止まって、本当に必要な情報、大事にするべき価値観は何なのかを自分のフィルターに通して選別したい。
▼外出時に時間が空いたときは、頭をリラックスさせる。日々、目に映り耳に入った情報を自分の中でどう受け止め、行動に反映させていくのかぼんやりと考える。
最初は論理から入るんじゃなくて、自分のこれまでの人生観に照らし合わせて自然に湧き上がってくる第一感を大切にする。言わば「感じる」。
その上で、その第一感は現実を捉えていたか、捉えきれていなかったかを論理的に検証する。「考える」。
この「感じる」と「考える」の繰り返しが、物事を正しく判断するための「感覚」と「思考力」を養うことにつながる。
そして情報収集でもたらされた「感情」が「感性」になる。「知識」が「知性」になる。
感情・知識は誰でも持ち合わせている。感性・知性を持ち合わせてこそ、人は魅力的だと思う。これが大事だと思うのだ。
どうも人間は、インターネットが浸透すればするほど、往々にして、ちゃんと感じて考えるという試みが疎かになってしまうような気がするのだ。つまり「感情」「知識」が肥大する分だけ「感性」「知性」が縮小していくような。
▼どうしても何かを調べたくなった時は、ガラケーでも最低限の情報を取得することができている。スマートフォンの機能も大変に魅力的ではあるが、もうしばらくの間はガラケーで粘りたい。
そうは言いながら、なんだかんだで一番の理由は、できるだけ周囲に流されたくない、敢えて流行に抗ってみたいという私の偏屈、意固地な「気性」によるものだろうか(笑)
▼というわけで、インターネットは人間に革命的な情報収集力をもたらしたが、私はそれが故の大きな影の存在を感じずにはいられない。そのあたりについて、今後もっと論考を深めていければと思う。
●今日もお読みいただき、ありがとうございました。