かずのひとりごと

日本について、世の中について、私の生き方について、考えたことを書きます。

舛添都知事の不正に対して国民はどう対峙するべきか、「ミヤネ屋」を見て感じたこと

●前回の更新がまさに予告であったかのように、いよいよ文春が追撃の決定打を放ち、舛添都知事が窮地に追い込まれています。あまりにもお粗末で身勝手な言い訳、庶民とはかけ離れた常識外れの金銭感覚に唖然とするばかりですが、それで終わってはいけません。なぜこのような人物が、211万もの票を獲得して、日本の首都のトップリーダーにまで担ぎ上げられてしまったのか? 問題の根っこを考えないと、またこのような悲劇が繰り返されかねません。

●原因は様々挙げられるでしょう。政治資金規正法の問題だったり、行政で長年染み付いてしまった悪しき体質であったり、真実を追求しないメディアの問題であったり…。では、それらを是正するためにはどうすればいいのかと言えば、最終的には、他でもない我々国民が変わる以外にない。そのことを改めて認識しなければいけません。政治家を選ぶのもメディアを選ぶのも我々国民なのですから、単に批判するだけでなく、当事者意識をもって自らを省みることが必要です。

●普段めったにテレビを見ない私ですが、勤務先で舛添都知事の会見を報じていた「ミヤネ屋」を見て、率直に言ってその報道姿勢に不快感を覚えました。具体的にどの部分が、ということではなく、番組全体を覆っている「空気」に対してです。この「空気」というのが、漠然としていながらも、いやそれが故に、広く多数の人間に抵抗なく浸透していく、非常に厄介なものです。ましてや昼下がりの時間帯、日常的にお茶の間などで流されている影響は、決して軽視できない、大きいものがあると思うのです。

●私が感じた空気というのは、

「やれやれ、またかという感じ。もううんざり…」といった失望感、脱力感であったり、

「ちょっとこれはどうかと思いますね…」といったぼやけた疑念であったり、

「一体どうなっちゃうんだ…」とどこか他人事の風であったり。

●都民の血税が、トップリーダーの収支報告書虚偽記載という「犯罪」で政治活動以外に使われていたらしいという重大事件に対して、なぜそんなに悠長に、苦笑いしていられるのか。こういう時こそ怒り、毅然として「断じて許せない」と態度を鮮明に打ち出すのが国民としてあるべき姿なのではないでしょうか。どうも「客観的であること」と「曖昧であること」が混同されているような気がしてなりません。

 然るべき時にしっかりとした主張をしないで「感情的にならず、冷静に」という態度をとるのは大人のようでいて、事なかれ主義ではないでしょうか。怒れとまでは言いませんが、もっと国民としての、当事者としての、本気が伝わってくる言論を求めたいと思います。ワイドショーには無理なのかもしれませんが。

●以上、ここまで威勢良く語ってきましたが、実は他でもない私自身も、いざという時に主張できる人間なのかと問われれば、自信をもって答えられないのが正直なところなのです。自分を省みつつ、メディアをより良いものにしていくために一国民として何ができるかを考えたいと思います。